「地は茫漠として」(創世記1:2)

2010年7月12日

新改訳聖書・第三版では、従来の「地は形がなく、何もなかった」を「地は茫漠として何もなかった」と改訳しました。その理由は、ヘブル語のトーフーという語が、形があるかどうかを意味することばではなく、ウガリト語のthw(沙漠・荒地)のように、本来「荒野」とか「荒地」(申命記32:10,ヨブ6:18, 12:24)のような具体的な場所を指す語であったからです。「形がなく」(formless, without form)は、アウグスチヌス以来、西欧の教会に定着してきた訳語ですが、七十人訳聖書が受け継いでいるギリシア的思想を反映しています。そのギリシア語は、最近では、プラトンの『ティマエウス』という創造神話にまで遡りうると言われています。

1989年の改訂英訳聖書(REB) は、欽定訳以来、数百年にわたって受け継がれてきたこの訳語の代わりに、トーフー・ワ・ボーフーという表現をまとめて “a vast waste”(広大な荒地)と改訳しています。しかし、「茫漠として」は、地の状態が「荒地」であったと言っているのではありません。本来ならばそこに草木が生え、動物がいて、人間が住んでいるはずの地が、荒涼としてとりとめもなく広大な「荒地のような」状態であると宣言しているのです。この「茫漠として何もない」地は、神の霊、即ち神の「息」(ルーアハ)によって発される「ことば」により、草木を生じるようになり(11-12節)、動物を生じるようになるのです(24節)。そして、神は、このように整えられた地に、ご自身の「かたちとして」(次回参照)創造した人間を置かれたのです。

創世記1章の記述は、冒頭から、「地」に注目し(2節)、神の創造の業のクライマックスとして「地」に存在するようになった「人」に焦点が当てられています。それは、すでに「地」に置かれている人間に、人間がまだ存在していなかった時の、体験的には知りえない「地」の状況を、人がすでに知っている「荒地」という普通のことばを比喩的に用いて、「地」がまだ通常の地ではなかったことを伝えているのです。