「咎を覚える」(レビ記 4:1-6:7)

2010年7月12日

新改訳第二版のレビ記 4章 1節から 6章 7節までには、「罪に定められる」という訳語が何度か登場しています。(例えば、4章 13, 22, 27 節)。この語は、アーシェームというヘブル語です。つまり、法的な意味での裁きを示す語と理解されたと思われます。これまでの英訳の多くも、この語を’be guilty’ と理解してきました。

第三版では、この語を「咎を覚える」という、礼拝者の罪意識を反映する訳語に変えました。一つの大きな理由は、4 章 13, 22, 27 節、また、5 章 2, 3, 4, 5, 17 節、6 章 4, 7 節における意図は、礼拝者がいかなる時にいけにえを献げるかを示すことにあると考えられますが、第二版のような訳ですと、「いつ」自分がいけにえを献げるのかが示されないことになります (特に、4:22-23, 27-28 参照)。

そこで、近年では、アーシェームは、’be guilty’ ではなく、’feel guilty’ であるという説も出されています。しかし、従来の訳に対するこの訳のメリットはあるものの、純粋に主観的な意味となってしまい、神の前に現存する「罪」の結果としての「咎」という意味合いが薄れてしまいます。また、アーシェームに、罰を受けて「苦しむ」という意味を読み込む立場もあります。

しかし、「罪」とは何かとの問いにも関わることですが、テキストは、「苦しみ」が何から来ているかさえも分からない人間の実存を問題にしていると考えられます。結論として、アーシェームという語は、「咎」の客観的な側面と主観的な側面を表現したものであろうと考えます。近年では、Jewish Publication Society 訳や English Standard Version などが’realizeguilt’ という表現でそのような意図を反映させようとしています。また、主の禁止命令のひとつを行うことと、「咎を覚える」こととが、同時に起こるかのような印象を避けるために、「後で咎を覚える場合」と補足してあります。