「わざわいだ」(マタイ23章ほか)

2010年7月12日

福音書の改訂個所でもっとも顕著なもののは、おそらくマタイ23章等にくり返される「わざわいだ」という表現でしょう。新改訳聖書の初版で「わざわいが来ますぞ」、第二版で「忌まわしいものだ」と訳されていたものが、さらに変更されました。原語はウーアイという間投詞で、激しい痛みや不快感を表明するものです。第二版はこの言葉を、「忌まわしいものだ」だけでなく、「ああ」「悲惨なのは」「のろわれます」「哀れな者です」「わざわい(に会う)」といった具合に多様に訳して来ました。

これらの多くは説明的ですが、この語は本来、心にある痛みや憤りを単純に表現したものです。確かに文脈に応じてその思いを説明する言葉を当てるのもできますが、かえって言葉にならないうめきという印象から遠ざかることになります。特に、「忌まわしい」という形容詞は、強い嫌悪の情を言い表しているという点ではウーアイの訳語としてふさわしいものの、神道的な不吉、けがれ、さわりといったものを強く意識させるため、主イエスの思いが誤解されるおそれが生じます。それでは、間投詞の「ああ」ならばよいかと言うと、そうでもありません。活字を目で見るだけではあいまいで、そこにある思いをくみとることが容易ではありません。

そこで、説明的な訳語の中でも単純で、主のパリサイ人に対する思いを比較的適切に表現していると思われる「わざわいだ」という訳を採用することにしました。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人」と言われるとき(マタイ23章13、14、15節等)、彼らが人々にわざわいをもたらす存在であるとともに、彼らが自らにわざわいを招くことになる事実に、何とも言いがたい痛みや憤りを覚えつつ、警告しておられる主の姿を、私たちは思い浮かべることができるでしょう。