「理由? それとも結果?」(ローマ1:19、21)

2010年7月12日

ローマ1章19節と21節は、第二版では「なぜなら」「というのは」という言葉で始まっていました。それが第三版では「それゆえ」となっています。原語はディオティという接続詞です。この語は、これまで述べて来たことを受け説明を加えるときに使われます。どちらかと言えば理由を示すことが多いのですが、これまで述べて来たことから結論を引き出すケースもあります。新改訳と新共同訳で「それで」「だから」と訳されている I テサロニケ2章18節は、その良い例です。どのように訳すか、決め手は文脈にあります。

18節で、パウロは人間の不敬虔や不正に対して神の怒りが天から啓示されているとし、続いて19節で「神について知られることは、彼らに明らかである」と記しています。いずれも神による啓示を語っていますが、後者は一般的、前者は具体的です。したがって、理由ととるなら、後者は余り意味のない繰り返しをしたことになってしまいます。しかし、推論ととれば、前者から一般的な真理が引き出されたと解することができます。

20節でパウロは、神は被造物を通してご自身を啓示しておられるので、人間に「弁解の余地はない」と論じ、21節では、人は神を知っていながら、神を神として崇めず、思いはむなしく、心は暗くなったと書いています。したがって、21節はなぜ弁解の余地が無いのかという理由を述べていると理解されることが多いのです。けれども、20節全体とのつながりを考えれば、啓示が明瞭であるだけに、それを知りつつ認めない人間の罪深さが強調されていると理解できます。

20節から23節に、「知らされている→知っているがあがめない→知者であると言いながら愚かである」という思想の発展があることを考慮するなら、「それゆえ」と訳した方が良いように思われます。