『新改訳聖書』の将来

2010年7月12日

『新改訳聖書』が以上のような特色を持つ聖書だとしても、数々の改善すべき課題がないわけではありません。絶えず見直しが必要であることは、すべての翻訳聖書に共通の宿命だからです。

第一に、一つの翻訳聖書として、その信仰と神学が継承されていることの確認が必要です。

第二に、聖書の研究の成果が絶えず新たに反映されるという点からも見直しは必要です。このような成果は第三版では僅かしか加えられませんでしたが、その僅かな個所でさえも非常に重要で意義深い変更です。将来の見直しにはさらにおおいに期待したいものです。

第三に、どんな言語も時代とともに少しずつ変わって行くことを無視できません。従来のことばが若い人々に通じなくなるという事態も実際に起きています。用字用語、表現、文体、表記法なども変化します。『新改訳聖書』も「諸般の事情」がなければもっと早い時期に大改訂が行われるはずでした。第一版の発行当時は、教育漢字、当用漢字などの規制が厳しい時代で、聖書に使う漢字にも制約がありました。
「赦し」「贖い」などは、規制を超えた例外的な用例です。また第一版当時は「現われる」と書いたが、最近では「現れる」と書く、というたぐいの変化があるために、聖書の日本語と学校教育のそれとの間のズレで子どもたちが混乱するとも言われてきました。 『新改訳聖書』の本来の方針であった敬語や丁寧語の簡素化も、当時としては斬新すぎて徹底しなかったが、その後、日本語一般でのこれらの簡素化は急速に進み、今では『新改訳聖書』がいっそう冗漫に感じられるほどになっています。今回の小改訂では、送り仮名の変更、句読点の若干の削除なども行いましたが、根本的な手直しは、これも将来への宿題となっています。

さて、聖書翻訳の継続作業について、もうひとつ重要な点があります。即ち、第四に、聖書翻訳は絶えず時代の要請に応えるばかりでよいのかという問題です。
こんにちの「声に出して読みたい日本語」ブームと、歯切れのよい文章で聖書を読みたいという願いには、何か相通じるものがあるでしょう。しかし聖書の場合には、どんな理論にもとづく翻訳であるかの態度決定が先ず大切です。それが「トランスペアレントな」翻訳をめざすということであれば、前述のとおり、本来の意味内容を犠牲にしてまでも「歯切れの良さ」「分かりやすさ」を求めることはしません。

さて、かつて各国の聖書は(日本語の場合も)、その国のことばの標準となって、時代を導き、思想や文化を形成する力となりました。『新改訳聖書』も、その精神を受け継ごうとする人々のたゆまぬ努力によって大いに改善され、世代から世代へと引き継がれ、充実していくことを、私たちは期待します。継続と継承が信仰を養い、教会を育て、文化と風土を培い、思想を生み、歴史を形成し、実を結ぶものと考えるからです。

「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40・8)