翻訳としての『新改訳聖書』の立場

2010年7月12日

『新改訳聖書』の翻訳の基本姿勢は、原文に忠実であるということです。

しかし原文に忠実であるといっても、さまざまな立場があります。例えばアメリカ聖書協会のユージン・ナイダという福音的な学者が提唱して1940年代以降の聖書翻訳に大きな影響を与えた「ダイナミック・イクイヴァレンス」、さらにそれを発展させた「ファンクショナル・イクイヴァレンス」(FE)と呼ぶ理論があります。

聖書の使信を、異なる民族、文化、時代の言語に移すときに、先方すなわち「目標言語」において理解可能な、等価の事物や概念に置き換えるという方法です。第2次大戦後、この理論に基づき、洪水のように多くの英語訳聖書が改訂され、あるいは新たに訳されました。またこの理論は各国語の聖書翻訳にも多大の影響を与えましたし、聖書以外の一般の翻訳理論としても注目され歓迎されました。

確かにこの方法も原文の意味を有効に伝えようとする1つの努力であり、このような「パラフレーズ(分かりやすく言い換える)訳」「意訳」にも意義はあります。キリスト教国といわれた国々においてさえ、聖書の内容を知らない「聖書文盲」が増える世俗化の時代に、これらの翻訳が果たした役割は見逃せません。しかしこのFE理論にもとづき多くの翻訳聖書が現れた「多訳時代」の結果をふまえて、また自らもその1つに参加した経験に基づいて、R・C・ヴァンルーウェンという学者が最近、『もう1つの聖書翻訳がどうしても必要』という、刺激的で皮肉な題の小論文を発表しました。言語学者や翻訳者たちがしだいにFE理論を唯一の方法とすることに疑念を持ち始めていること、むしろ我々に真に必要な今一つの聖書翻訳は「トランスペアレント(透けて見える)」な訳、原文の形や言い回しを残した訳、時にはとっさに意味をつかみかねる、ぎこちない訳でさえありうることを、数々の翻訳例で説明します。

その1つを挙げると、コロサイ3・9、10の「新しい人」が、こんにちの英語訳聖書ではFE理論にもとづいて「新しい自己」、「刷新される人間性」などと訳されることにより、アダムとキリストの対比、新しい人とはキリストであること、を捨ててしまい、アメリカ最大の偶像「1人1人の自己」「自己像(セルフイメージ)」を語ることとなってしまう、というのです。

つまり、こんにちの人に親しい分かりやすいことばでと配慮し、ダイナミックまたは機能的に等価と見なして行う言い換えが、結局は人々を聖書の原意から遠ざけてしまうのだと指摘します。そして、むしろ分かりにくいと思える表現や原意は、言い換えによってでなく、聖書全体を繰り返し読んで慣れることにより、また説教者や注解者が説き明かすことによって、理解が深められるべきであり、「ひとりぼっちで聖書を読むことは聖書的でない」のだと言います。つまりは牧師や注解者の仕事が重要で意義深いはずであることを明らかにするのです。(ヴァンルーウェンの小論文が日本語に訳されることを期待します)。

では『新改訳聖書』の翻訳方針はどんなものだったのでしょうか。編集主事の舟喜順一氏に協力し、新約の場合は話しことばの専門家であった故三尾砂氏、また旧約には林四郎氏(元筑波大学教授。当時国立国語研究所)がそれぞれ国語顧問として参加しました。林氏は、小冊子『新改訳聖書の特色』『みことばの友』誌、『新改訳聖書ニュース』等に、日本語訳文の方針についての所感をたびたび載せています。

いくつかの論点を簡潔にまとめると、

第1に、事実を伝えることが主眼…「聖書はあったままの事実を伝える書物である」こと。

第2に、直訳がよいこと…「聖書の原文が名文であるかないのか…知らない。かりに名文であったとしても…それを訳した日本文まで名文になることは期待できない」「大胆な意訳をすれば、名文はできても原文から離れる可能性が強い。訳者が『うまい訳だ』と思ってしたのではないかと思われる、熟しすぎた日本語に出会うと、警戒心を起こし…」云々。

その他、第3に、敬語や丁寧語を簡素にすること。

第4に、基本語として長く使われている「和語」を生かすこと、などです。

驚くべきことに、これらの方針はヴァンルーウェンの所説と多くの点で共通していました。いやむしろヴァンルーウェンは従来の翻訳のありかたの良さを再確認したのだというのが正しいでしょう。『新改訳聖書』はDE理論(やがてFE理論に発展)の隆盛期にそれに同調しなかったため、その反省期に入った今では逆に最先端にいる、といえば言い過ぎでしょうか。いずれにせよ『新改訳聖書』はまさに「トランスペアレントな訳」であったと言えるでしょう(実際の用語としては「直訳」「リテラル訳」などを、定義を限定して使いましたが)。この点で『新改訳聖書』を翻訳し編集した先達の見識は、高く評価され感謝されなければなりません。