聖書 新改訳2017が発売されます

これまで『聖書 新改訳2017』の翻訳・編集作業のために、多大なるお祈りとご支援を頂戴し、誠にありがとうございました。皆様のご支援に支えられて、いよいよこの10月に、『聖書 新改訳2017』が予定通り、いのちのことば社より発売される見込みとなりましたことを、ご報告致します。

つきましては、以下に、刊行にあたっての簡単な説明をさせて頂きますので、どうぞご覧下さいますよう、お願い申し上げます。なお、以下の文章は、月刊誌「いのちのことば 10月号」に記載のものと同一ですので、あらかじめご了承頂けましたら幸いです。


「待ちに待った」改訂

『聖書 新改訳2017』翻訳編集委員長
一般社団法人 新日本聖書刊行会 理事 津村俊夫

刊行の意義

1970年に初版が刊行されてから半世紀近くになる『聖書 新改訳』です。2003年に小さな改訂(不快語と差別語の変更など900節の改訂)がなされたとはいえ、若い世代の人たちにとって、自分が生まれる前からあった『新改訳聖書』には、日本語として分かりにくくなった表現(例えば、「かわや」〔トイレのこと〕や「つぶやく」〔不平を言うこと〕など)が少なからずあるようです。それは、日本語自体が変化しているからです。聖書本文の研究も進んでいて、30年おきには大規模な翻訳改訂が必要であるといわれています。その点からしても、今回の全面改訂は「待ちに待った」改訂だといってよいでしょう。

2003年に小さな改訂しかできなかったことには、さまざまな理由がありました。今回は、日本の教会の祈りの中で、翻訳団体が出版社と確かな出版契約を結んで進められています。これからは、著作権問題で第三者から誤解されたり苦しめられたりすることなく、教会が必要と判断したときに、さらなる改訂を行うことができるようになります。次の大きな改訂に備えて、若い世代の中から聖書翻訳に従事する人々が起こされるようにと祈ります。

魅力と特徴

『聖書 新改訳2017』の持つ魅力は、何といっても、従来の翻訳理念を踏襲しつつ、この時代に相応しく全面的な改訂を行ったことです。しかし、2017年版を読むときに「あまり変わっていない」ような印象を持たれるかと思います。しかし、第三版と読み比べてくださると、聖書全体3万3000節の内、ほとんどすべて(約9割)の箇所に何らかの修正、変更が加えられていることに気がつかれるでしょう。 また、今回の大改訂が「宗教改革500年」の年に完成したことは、まさに、神の素晴らしいご配剤です。聖書を「第一の」権威とし「第二の」権威を認めるカトリック教会とは異なり、「聖書のみ」に権威を置く私たち(プロテスタント)が、この記念すべき年に、新たな思いで、「誤りなき神のことばである聖書」に親しみ、聖書によって生かされるという恵みが与えられたことを心から喜びたいと思います。そして、この聖書を日本語を使う多くの人たちが読んで、素晴らしい神の救いに与ることを心から願います。

(1)従来の翻訳原則を踏襲していて、変わらなかったところ

 新改訳聖書の特徴の一つとして、初版のときから、漢語よりも和語を大切にするという原則がありました。例えば、「腹を立てる」という表現を「憤慨する」と訳したりはしませんでした。従来どおり「ですます調」を基本とする方針を維持しましたが、丁寧すぎる表現にならないように心がけました。また、「さばき」、「みことば」、「みこころ」、「たましい」、「からだ」などは、通常の意味と区別するために、あえてひらがな表記にするという立場を踏襲しています。

(2)用字用語の点で大きく変わったところ

 従来は一般に使用できる漢字が限られていたために、どうしてもひらがなを多用せざるを得ませんでした。今回は、常用漢字の数も格段と増えましたので、訳文に漢字が増え、読点が減りました。例えば、「はいる」は「入る」になりました。「魚」などのルビも、現代語の「さかな」にしています。全体として、読みやすくなったと感じられるでしょう。

(3)慣れ親しんで来た聖句の翻訳が変わったところ

 暗唱した聖句や、慣れ親しんできた箇所が変わると、だれしも「なぜ」と思うでしょう。そのような場合、そうなったのには何かの理由があったのではないか、と考えていただきたいのです。いろいろな理由があります。原文の意味がより正確に理解できるようになったか、日本語が変化してしまったか、関連箇所が改訂されたので変わったのか。例えば、今回、満を持して改訂したところがあります。主の祈りの「御名があがめられますように」は、「御名が聖なるものとされますように」と変わりました。「あがめる」では、「聖なるものとする」という意味のギリシヤ語(ハギアゾー)が正しく伝わらないからです。

(4)聖書理解が大きく変わるところ

 ローマ12章2節の「心の一新によって自分を変えなさい」は、「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」と変わりました。自分の努力で変われるかのような誤解を与えかねない訳でした。また、放蕩息子の告白のことば、「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」は、「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です」に変わります。息子が父に、自分の犯した罪の行為よりも、「父の前に罪ある」自らを告白しているのですから。また、十戒の「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」は、「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」に変わります。隣人に面と向かって語ることではなく、隣人に不利になるように(英訳:against)偽証することがいわれていますので。

(5)原文が透けて見える(トランスパレントな)訳を心がけました

神学的理解に影響するところでは、できるだけ原文と同じ品詞に訳しました。例えば、神の「かたち」と「似姿」(創1・27、5・1)。また、原文が「そむき」であるときに、必要以上に「そむきの罪」と訳すことがないようにしました。初版以来の「うなじのこわい」は、ヘブル語の「首筋の固い」(直訳)から来た名訳でしたが、現在では「こわい」が「強い」を表せなくなっていますので、「うなじを固くする」に変更しました。漢語で「頑固な」とすることは、新改訳らしくないので避けました。

(6)聖書の「代償的贖罪」の教えがより鮮明になりました

神への「恐れ」を、「畏れ」と表記することはしませんでした。聖なる神の御前に出ることには、本来「恐れ」が伴うものであるからです。神の「怒り」の前に滅びるほかない、汚れ果てた罪人のために、神自らがまず祭司に「宥め」(出エジプト9・36、レビ1・4)を行わせ、ついに御子イエスを「世全体の民のための宥めのささげ物」(Iヨハネ2・2)としてくださったのです。ヘブル語のキッペルが、従来「贖い」と訳されてきたために、「贖う/買い戻す」(ガアル)や「贖い出す/釈放する」(パダー)との区別が明確ではありませんでしたが、今回の「宥め」という訳出でそれが明確になったと思います。これで「宥めのささげ物」(ローマ3・25)と旧約の「宥めのための」ささげ物がつながり、「贖いのふた」が「宥めの蓋」(出エジプト25・17)に変わることになりました。