聖書 新改訳 第三版の特徴

こちらのページは、2003年に出版された旧版である「聖書 新改訳 第三版」出版当時の情報を、記録のために掲載しています。あくまで参考情報としてご覧下さい。

新改訳聖書の特長

次の5つの特長があります。

  1. 聖書を『誤りなき神のみことば』と告白する福音主義の立場に立つ委員会訳であること。
  2. ヘブル語およびギリシャ語本文の修正を避け、原典に忠実に翻訳していること。
  3. パラフレーズ訳ではなく、リテラルな翻訳であるが、各書の文学類型にふさわしい日本語の文体を用いていること。
  4. 固有名詞など,従来の邦訳聖書の伝統を出来るだけ生かしていること。
  5. 特定の神学的立場に傾かないで,言語的に妥当であるかを尊重すること。

『新改訳聖書』の歴史

1970年に『新改訳聖書』(旧新約)が世に出て以来、すでに30年以上が経ちました。その間、第二版(1978年)で若干の訂正が行われたものの、諸般の事情により、その後の改訂は滞っていましたが、2003年にようやくにして道が開かれ、改訂第三版が発行されました。

この小改訂は、いわゆる差別語、不快語、とりわけ訳語「らい病(人)」の見直しが中心であり、部分的には新たな訳を試みた個所もありますが、文体を含む本格的な大改訂はなお今後に期待することとなりました。

そこでこの機会に、『新改訳聖書』はそもそもどんな目的で翻訳出版されたのか、当時の経緯をたどり、『新改訳聖書』の翻訳の基本方針、改訂の必要性について考え、さらに将来の展望を試みたいと思います。

『新改訳聖書』のルーツ

1955年に『口語訳聖書』が発行されたとき、筆者(新日本聖書刊行会理事・津村俊夫)は11歳の子どもでした。恐らく自分たちが『文語訳聖書』で養われた最後の世代なのだと考えますが、当時のことは今も鮮やかに記憶しています。

我々がそれまで使っていた『文語訳聖書』は、厳密には旧約を「明治訳」「元訳」(1887年)、新約を「大正訳」「改訳」(1917年)と呼ばれました。明治時代に翻訳した聖書の新約の「改訳」が大正時代に先ず完成し、さらに旧約の作業も続けられましたが、やがてわが国が戦争に突入し、教会は苦難の道を歩み、作業も困難を極め、結局は旧約の改訳は行われず、「元訳」のまま残りました。

のちに『新改訳聖書』の旧約主任となった故名尾耕作氏(日本ルーテル教団)は、戦前戦中を通じて『文語訳聖書』旧約改訳の翻訳専任委員として働きましたが、終戦まぢかの1945年5月、銀座の聖書協会ビル内の、翻訳事務室のあった6階部分だけが戦火によって全焼し、貴重な資料を失ったことなどの当時の体験を書き残しています(『みことば』誌5号(1970年4頁))。

さて敗戦を迎えると、もはや文語の改訳ではなく、現代日本語の聖書を翻訳しようということになり、上述のとおり『口語訳聖書』が出版されました。けれども出来上がったこの翻訳に対してはさまざまな反対意見が唱えられました。「…するであろう」という訳では神の約束の確かさがあいまいになるとする文体上の不満、また釈義や神学の観点からは、神やキリストの権威をことさらに弱めるきらいがある、などの批判が相次ぎます。さらに、この翻訳の傾向は、同じ頃に出た英語聖書『改訂標準訳』(RSV.1946年に新約、52年に旧約)に追随するものだとも指摘されました。

これらの批判はいわゆる福音的な諸教会から挙がっただけではありません。今では古典とされる『聖書の和訳と文体論』(1973年・キリスト新聞社)で、著者の藤原藤男氏は『口語訳聖書』への批評を行いました。例えばRSVの影響が「アブラハムはイサクの父であり、…」(マタ1・2)、「信仰による義人は生きる」(ロマ1・17)などに、また「…キリストも彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン」(ロマ9・5)という訳にも見られること。「イエス・キリストを神ないし子なる神と呼ぶことを好まない者、人本主義者、近代主義者、ユニテリアン、アウリス主義者、自由主義者は、…RSVや聖書協会訳(すなわち『口語訳』 )のように読む」こと。このような訳は「いままでのところ日本では聖書協会『口語訳』だけである」こと。 使徒20・28では、底本としたネストレ校文に依拠せず、RSVを踏襲して「神が御子の血であがない取られた神の教会」と訳すのは、「…リベラリズムの臭気がただよって近よれない思いがする」こと。 『神ご自身の血』を抹殺して『御子の血』だけ他の校本から借りて来た姑息な翻訳姿勢には、人本的な小ざかしい知恵による非福音的なひよわなものがみえすいていて、鋭く批判されねばならない」こと。『口語訳聖書』以前は「なだめの供物」(ロマ3・25)と訳していたヒラステーリオンを「あがないの供物」として、「耳ざわりのよい、なめらかな弱々しい言葉におきかえ」、「罪に対する律法の怒りをおおうなだめの血」であるべきところを、「近代化してしまっては聖書の宗教にとって台なしである」こと、等々。

藤原氏は以上のように『口語訳聖書』を批判しました。氏は『新改訳聖書』の良い点として(もっともそれは翻訳として当然のことで取り立ててほめることでもないと断りつつ)、キリストの神格をはっきり訳したこと、『なだめの供え物』と訳して本来のすがたをとりもどしていること、などを高く評価するとともに、同時に文体上の弱点その他について、的確で公平な批評を行っており、それらの指摘には今なお傾聴に値するものがあります。

故藤原氏と同様の意見は、前述の通り福音的諸教会からも挙がっていました。そして福音的諸教会は『口語訳聖書』に見られるRSV的傾向よりも、『文語訳聖書・新約』(改訳聖書)の精神を受け継ぐことを願い、新しい翻訳に着手したのです。こうして完成した新しい聖書は文語体ではなく現代口語による翻訳ですが、文語訳『改訳聖書』の精神を大切にしたいとの思いから、『新改訳聖書』と命名されたのでした。このことは『新改訳聖書』出版前後のころに刊行されていた不定期『みことば』誌上で、『新改訳聖書』新約主任であった故松尾武氏(日本改革派キリスト教会)が繰り返し述べているところです。

17世紀初頭に生まれた『欽定英訳聖書』(AV.1611年)の改訂が、英国では『英改訂訳聖書』(BRV.1881ム5年)、米国では『米標準訳聖書』(ASV.1901年)として生み出されたこと、日本の『文語訳聖書・新約』(改訳・大正訳)はこの路線で行われ、また『新改訳聖書』もこの「従来の日本語聖書の伝統の線に…連なっている」こと(同誌第3号、1964年6頁他)、などがここに記録として残っています。

なおまた『新改訳聖書』が節ごとに改行するのも、『欽定英訳聖書』(1611年)、『ジェネヴァ聖書』(1560年)にまで遡る伝統であるとのことです。その手法の当否はともかくとし、また今後も『新改訳聖書』がそれを踏襲するかどうかもともかくとして、事実はそのようなことでした。以上のことから分かる通り、翻訳聖書の変遷には、聖書への態度や信仰の違いが大きな影響を与えます。また聖書翻訳には継続的な作業の積み重ねが必要であり、どの国の、どの時代の聖書の場合でも、それがどのような翻訳姿勢を継承しているかを表すために、ルーツがたどれるような名称を付けるものです。新鮮奇抜な名前であればよいというものではありません。 すでに述べたとおり『新改訳聖書』という名称に含まれる「改訳」の語は、いわゆる翻訳、改訂、改訳という場合の通常の意味ではなく、かつての『改訳聖書』の信仰や神学や翻訳の精神に則っていることを表す意味で「新改訳」と呼ばれるのです。

さて『新改訳聖書』の翻訳出版についてもう1つの経緯を明らかにしておく必要があります。すなわちアメリカのロックマン財団が、『新改訳聖書』第1 版の翻訳出版に当たって財政的援助を行ったことです。この財団はキリスト者の1篤志家が聖書翻訳やキリスト教教育を支えるために設立したもので、『新改訳聖書』と同じ時期に『新米国標準訳聖書』(NASV. 後にNASB.1971年)の改訂作業をも援助します。日本での『口語訳聖書』に対すると同じ危機感が、アメリカでもRSVに対して抱かれていたためでした。こうして図らずも日米で同じころにそれぞれの作業が行われたことから、『新改訳聖書』はNASBという英語訳の重訳だとの風評を流されることもありましたが、それは「本文批評上の問題点はNASVに準拠する」という当初の取り決めを誤解した向きがあったためのようです。事実NASBが新約に続いてその旧約の完成を見たのは『新改訳聖書』の旧新約完成(1970年)よりも1年後の1971年であったことからして、日本語聖書を英語聖書からの翻訳は物理的に不可能です。また旧約においては本文批評上の準拠も起こりえなかったのです。当時の各翻訳主任であった故松尾氏、故名尾氏、下訳を担当した多くの人々の名誉のためにも、この点を明確にしておかねばなりません。

翻訳としての『新改訳聖書』の立場

『新改訳聖書』の翻訳の基本姿勢は、原文に忠実であるということです。

しかし原文に忠実であるといっても、さまざまな立場があります。例えばアメリカ聖書協会のユージン・ナイダという福音的な学者が提唱して1940年代以降の聖書翻訳に大きな影響を与えた「ダイナミック・イクイヴァレンス」、さらにそれを発展させた「ファンクショナル・イクイヴァレンス」(FE)と呼ぶ理論があります。

聖書の使信を、異なる民族、文化、時代の言語に移すときに、先方すなわち「目標言語」において理解可能な、等価の事物や概念に置き換えるという方法です。第2次大戦後、この理論に基づき、洪水のように多くの英語訳聖書が改訂され、あるいは新たに訳されました。またこの理論は各国語の聖書翻訳にも多大の影響を与えましたし、聖書以外の一般の翻訳理論としても注目され歓迎されました。

確かにこの方法も原文の意味を有効に伝えようとする1つの努力であり、このような「パラフレーズ(分かりやすく言い換える)訳」「意訳」にも意義はあります。キリスト教国といわれた国々においてさえ、聖書の内容を知らない「聖書文盲」が増える世俗化の時代に、これらの翻訳が果たした役割は見逃せません。しかしこのFE理論にもとづき多くの翻訳聖書が現れた「多訳時代」の結果をふまえて、また自らもその1つに参加した経験に基づいて、R・C・ヴァンルーウェンという学者が最近、『もう1つの聖書翻訳がどうしても必要』という、刺激的で皮肉な題の小論文を発表しました。言語学者や翻訳者たちがしだいにFE理論を唯一の方法とすることに疑念を持ち始めていること、むしろ我々に真に必要な今一つの聖書翻訳は「トランスペアレント(透けて見える)」な訳、原文の形や言い回しを残した訳、時にはとっさに意味をつかみかねる、ぎこちない訳でさえありうることを、数々の翻訳例で説明します。

その1つを挙げると、コロサイ3・9、10の「新しい人」が、こんにちの英語訳聖書ではFE理論にもとづいて「新しい自己」、「刷新される人間性」などと訳されることにより、アダムとキリストの対比、新しい人とはキリストであること、を捨ててしまい、アメリカ最大の偶像「1人1人の自己」「自己像(セルフイメージ)」を語ることとなってしまう、というのです。

つまり、こんにちの人に親しい分かりやすいことばでと配慮し、ダイナミックまたは機能的に等価と見なして行う言い換えが、結局は人々を聖書の原意から遠ざけてしまうのだと指摘します。そして、むしろ分かりにくいと思える表現や原意は、言い換えによってでなく、聖書全体を繰り返し読んで慣れることにより、また説教者や注解者が説き明かすことによって、理解が深められるべきであり、「ひとりぼっちで聖書を読むことは聖書的でない」のだと言います。つまりは牧師や注解者の仕事が重要で意義深いはずであることを明らかにするのです。(ヴァンルーウェンの小論文が日本語に訳されることを期待します)。

では『新改訳聖書』の翻訳方針はどんなものだったのでしょうか。編集主事の舟喜順一氏に協力し、新約の場合は話しことばの専門家であった故三尾砂氏、また旧約には林四郎氏(元筑波大学教授。当時国立国語研究所)がそれぞれ国語顧問として参加しました。林氏は、小冊子『新改訳聖書の特色』『みことばの友』誌、『新改訳聖書ニュース』等に、日本語訳文の方針についての所感をたびたび載せています。

いくつかの論点を簡潔にまとめると、

第1に、事実を伝えることが主眼…「聖書はあったままの事実を伝える書物である」こと。
第2に、直訳がよいこと…「聖書の原文が名文であるかないのか…知らない。かりに名文であったとしても…それを訳した日本文まで名文になることは期待できない」「大胆な意訳をすれば、名文はできても原文から離れる可能性が強い。訳者が『うまい訳だ』と思ってしたのではないかと思われる、熟しすぎた日本語に出会うと、警戒心を起こし…」云々。
その他、第3に、敬語や丁寧語を簡素にすること。
第4に、基本語として長く使われている「和語」を生かすこと、などです。

驚くべきことに、これらの方針はヴァンルーウェンの所説と多くの点で共通していました。いやむしろヴァンルーウェンは従来の翻訳のありかたの良さを再確認したのだというのが正しいでしょう。『新改訳聖書』はDE理論(やがてFE理論に発展)の隆盛期にそれに同調しなかったため、その反省期に入った今では逆に最先端にいる、といえば言い過ぎでしょうか。いずれにせよ『新改訳聖書』はまさに「トランスペアレントな訳」であったと言えるでしょう(実際の用語としては「直訳」「リテラル訳」などを、定義を限定して使いましたが)。この点で『新改訳聖書』を翻訳し編集した先達の見識は、高く評価され感謝されなければなりません。

『新改訳聖書』の将来

『新改訳聖書』が以上のような特色を持つ聖書だとしても、数々の改善すべき課題がないわけではありません。絶えず見直しが必要であることは、すべての翻訳聖書に共通の宿命だからです。

第一に、一つの翻訳聖書として、その信仰と神学が継承されていることの確認が必要です。

第二に、聖書の研究の成果が絶えず新たに反映されるという点からも見直しは必要です。このような成果は第三版では僅かしか加えられませんでしたが、その僅かな個所でさえも非常に重要で意義深い変更です。将来の見直しにはさらにおおいに期待したいものです。

第三に、どんな言語も時代とともに少しずつ変わって行くことを無視できません。従来のことばが若い人々に通じなくなるという事態も実際に起きています。用字用語、表現、文体、表記法なども変化します。『新改訳聖書』も「諸般の事情」がなければもっと早い時期に大改訂が行われるはずでした。第一版の発行当時は、教育漢字、当用漢字などの規制が厳しい時代で、聖書に使う漢字にも制約がありました。
「赦し」「贖い」などは、規制を超えた例外的な用例です。また第一版当時は「現われる」と書いたが、最近では「現れる」と書く、というたぐいの変化があるために、聖書の日本語と学校教育のそれとの間のズレで子どもたちが混乱するとも言われてきました。 『新改訳聖書』の本来の方針であった敬語や丁寧語の簡素化も、当時としては斬新すぎて徹底しなかったが、その後、日本語一般でのこれらの簡素化は急速に進み、今では『新改訳聖書』がいっそう冗漫に感じられるほどになっています。今回の小改訂では、送り仮名の変更、句読点の若干の削除なども行いましたが、根本的な手直しは、これも将来への宿題となっています。

さて、聖書翻訳の継続作業について、もうひとつ重要な点があります。即ち、第四に、聖書翻訳は絶えず時代の要請に応えるばかりでよいのかという問題です。
こんにちの「声に出して読みたい日本語」ブームと、歯切れのよい文章で聖書を読みたいという願いには、何か相通じるものがあるでしょう。しかし聖書の場合には、どんな理論にもとづく翻訳であるかの態度決定が先ず大切です。それが「トランスペアレントな」翻訳をめざすということであれば、前述のとおり、本来の意味内容を犠牲にしてまでも「歯切れの良さ」「分かりやすさ」を求めることはしません。

さて、かつて各国の聖書は(日本語の場合も)、その国のことばの標準となって、時代を導き、思想や文化を形成する力となりました。『新改訳聖書』も、その精神を受け継ごうとする人々のたゆまぬ努力によって大いに改善され、世代から世代へと引き継がれ、充実していくことを、私たちは期待します。継続と継承が信仰を養い、教会を育て、文化と風土を培い、思想を生み、歴史を形成し、実を結ぶものと考えるからです。

「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40・8)