改訂箇所解説コラム

聖書翻訳の最前線「新改訳《改訂第三版》」何が変わったのか

クリスチャン新聞に連載された記事や翻訳に携わった各委員が第3版の翻訳で、皆様に知っていただきたいと考えている変更の理由、重要なポイントをコラムとして紹介します。




「罪を犯しません」(ヨハネの手紙第一3:6,8,9)

これまでヨハネの手紙第一3章6、8、9節で「罪のうちを歩む/歩みません」と訳されていたものが、第三版で「罪を犯す/犯している/犯しません」と変わりました。これらはハマルタノーという動詞、あるいは動詞ポイオーと名詞ハマルティアの組み合わせで、いずれも単純に訳すと「罪を犯す/犯さない」となります。

ヨハネはクリスチャンでも罪を犯すことがあるとしています(1章8節、10節、2章1節)。そこで第二版は、3章6節以下が罪一般ではなく「習慣的な罪」を犯さないと教えていると理解し、「罪のうちを歩む/歩みません」と訳したものと思われます。確かに文法的には可能です。しかし「習慣的な罪」とそうでない罪の区別はあいまいです。また習慣なら必ず「歩む」と訳すわけではありませんから、この個所だけそうするのは不自然です。それに、このように訳すと他の可能性を始めから締め出すことになります。

他の可能性としては、クリスチャンは意図的に神に逆らうことはしないと教えているという解釈があります。敬虔な信者でも意図的に罪を犯すことが全く無いとは言い切れませんが、考慮すべき見解でしょう。あるいはまた、クリスチャンは本来罪を犯す者ではないと述べているという見方もあります。神の子の本質、理想の姿が語られているというわけです。合わせて、罪を犯さない者に変えられて行くようにという願いもこめられているという指摘もあります。本文からただちに読み取れるかどうかはわかりませんが、考察に値します。

こうした可能性を考えると、説明的で、始めから解釈を限定することになる第二版の訳よりも、「罪を犯す/犯しません」とう単純な訳の方がすぐれていると思われます。




「ひとりの違反、ひとりの義の行為」(ローマ5:18)

新改訳聖書第二版のローマ5章18節で「一つの違反」「一つの義の行為」と訳されていた言葉を、第三版は「ひとりの違反」「ひとりの義の行為」と訳しています。原文にあるヘノスというギリシャ語は、中性形ととって「一つの」と訳すことも、男性形ととって「ひとりの」と訳すことも可能です。

この語は5章12-19節で12回も用いられていて、中性形ととるべきケースもあります。それは16節後半にあるヘノスです。「多くの違反」と対照されていることから、明らかに「一つ違反」だとわかります。18節はその「一つ違反」を取り上げ、それですべての人が罪ある者とされたことと「一つの義の行為」によって義認がもたらされたことを対比させている、と解釈すれば、第二版のような訳が生れます。その際、ヘノスが「ひとり」を意味するなら、12、15、17、19節のように「人」「イエス・キリスト」といった語を加えればよいのに、それをしていないのだから、意図は「ひとつ」にある、と論じることもできるかもしれません。

しかしながら、実のところ、そうした語を加える必要がない程、文脈は「ひとり」と「ひとり」、アダムとキリストのコントラストで貫かれているのです。5章12節以下で、アダムの違反にスポットが当てられていることは確かです。しかし、それと対比して、
十字架の死という「一つの義の行為」に注目を引こうとしているわけではありません。

違反と対比されているのは、むしろ「恵み」や「賜物」です。また18節における「違反」と「義の行為」の対照が、19節では「ひとりの人の不従順」と「ひとりの従順」の対照で置き換えられていることを見ると、十字架という「一つの行為」が突出しているようには思えません。とにかく、焦点は「ひとりの人」アダムと「ひとりの人」キリストにあって、それぞれの「一つの」行為にあるのではないのです。




「理由? それとも結果?」(ローマ1:19、21)

ローマ1章19節と21節は、第二版では「なぜなら」「というのは」という言葉で始まっていました。それが第三版では「それゆえ」となっています。原語はディオティという接続詞です。この語は、これまで述べて来たことを受け説明を加えるときに使われます。どちらかと言えば理由を示すことが多いのですが、これまで述べて来たことから結論を引き出すケースもあります。新改訳と新共同訳で「それで」「だから」と訳されている I テサロニケ2章18節は、その良い例です。どのように訳すか、決め手は文脈にあります。

18節で、パウロは人間の不敬虔や不正に対して神の怒りが天から啓示されているとし、続いて19節で「神について知られることは、彼らに明らかである」と記しています。いずれも神による啓示を語っていますが、後者は一般的、前者は具体的です。したがって、理由ととるなら、後者は余り意味のない繰り返しをしたことになってしまいます。しかし、推論ととれば、前者から一般的な真理が引き出されたと解することができます。

20節でパウロは、神は被造物を通してご自身を啓示しておられるので、人間に「弁解の余地はない」と論じ、21節では、人は神を知っていながら、神を神として崇めず、思いはむなしく、心は暗くなったと書いています。したがって、21節はなぜ弁解の余地が無いのかという理由を述べていると理解されることが多いのです。けれども、20節全体とのつながりを考えれば、啓示が明瞭であるだけに、それを知りつつ認めない人間の罪深さが強調されていると理解できます。

20節から23節に、「知らされている→知っているがあがめない→知者であると言いながら愚かである」という思想の発展があることを考慮するなら、「それゆえ」と訳した方が良いように思われます。




「わざわいだ」(マタイ23章ほか)

福音書の改訂個所でもっとも顕著なもののは、おそらくマタイ23章等にくり返される「わざわいだ」という表現でしょう。新改訳聖書の初版で「わざわいが来ますぞ」、第二版で「忌まわしいものだ」と訳されていたものが、さらに変更されました。原語はウーアイという間投詞で、激しい痛みや不快感を表明するものです。第二版はこの言葉を、「忌まわしいものだ」だけでなく、「ああ」「悲惨なのは」「のろわれます」「哀れな者です」「わざわい(に会う)」といった具合に多様に訳して来ました。

これらの多くは説明的ですが、この語は本来、心にある痛みや憤りを単純に表現したものです。確かに文脈に応じてその思いを説明する言葉を当てるのもできますが、かえって言葉にならないうめきという印象から遠ざかることになります。特に、「忌まわしい」という形容詞は、強い嫌悪の情を言い表しているという点ではウーアイの訳語としてふさわしいものの、神道的な不吉、けがれ、さわりといったものを強く意識させるため、主イエスの思いが誤解されるおそれが生じます。それでは、間投詞の「ああ」ならばよいかと言うと、そうでもありません。活字を目で見るだけではあいまいで、そこにある思いをくみとることが容易ではありません。

そこで、説明的な訳語の中でも単純で、主のパリサイ人に対する思いを比較的適切に表現していると思われる「わざわいだ」という訳を採用することにしました。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人」と言われるとき(マタイ23章13、14、15節等)、彼らが人々にわざわいをもたらす存在であるとともに、彼らが自らにわざわいを招くことになる事実に、何とも言いがたい痛みや憤りを覚えつつ、警告しておられる主の姿を、私たちは思い浮かべることができるでしょう。




「償いとして」(レビ記 5:6)

「罪のためのいけにえ」と「罪過のためのいけにえ」の規定は、レビ記4章から6章 7節にかけて記されていますが、その二種類のいけにえの区別は、学問上、難しい問題とされてきました。しかし、「罪のためのいけにえ」の規定が 5章 13節で終わり、14節からは「罪過のためのいけにえ」が始まることは明かです。

そこで問題となるのが、5章 6節です。新改訳第二版では、「自分が犯した罪のために、罪過のためのいけにえとして、羊の群れの子羊でも、やぎでも、雌一頭を、主のもとに連れて来て、罪のためのいけにえとしなさい。」となっています。この訳では意味が分かりません。「罪過のためのいけにえとして」とある一方、「罪のためのいけにえとして」ともあるからです。

これは、アーシャームという語をいけにえの名称と捉えたためです。しかし、この語は、「いけにえ」の名称とともに、「賠償」という意味をもっています。「賠償として『罪のためのいけにえ』を献げる」という理解が正しいでしょう。そこで、第三版では、「自分が犯した罪のために、償いとして」と改訂しました。このことの背景としては、アーシャームに関係する語が、4章から6章 7節にかけて、次第に頻度を増しているという事実を指摘することができます。5章 1-13節は、「罪のためのいけにえ」に属しながらも、4章の場合よりは主に対する「賠償」という側面が全面に出た罪を取り扱っています。5章 14節から6章 7節の「罪過のためのいけにえ」では、その語がもっとも多く現れます。

また、これらの規定を正しく理解する上では、罪は罪でも、人の目に重い違反行為と見えるものが神の前にはそうではなく、むしろ、あからさまである故に軽いといった視点も必要でしょう。それは、「罪過のためのいけにえ」の罪が、聖所を汚すものではないことなどから言えます。




「咎を覚える」(レビ記 4:1-6:7)

新改訳第二版のレビ記 4章 1節から 6章 7節までには、「罪に定められる」という訳語が何度か登場しています。(例えば、4章 13, 22, 27 節)。この語は、アーシェームというヘブル語です。つまり、法的な意味での裁きを示す語と理解されたと思われます。これまでの英訳の多くも、この語を’be guilty’ と理解してきました。

第三版では、この語を「咎を覚える」という、礼拝者の罪意識を反映する訳語に変えました。一つの大きな理由は、4 章 13, 22, 27 節、また、5 章 2, 3, 4, 5, 17 節、6 章 4, 7 節における意図は、礼拝者がいかなる時にいけにえを献げるかを示すことにあると考えられますが、第二版のような訳ですと、「いつ」自分がいけにえを献げるのかが示されないことになります (特に、4:22-23, 27-28 参照)。

そこで、近年では、アーシェームは、’be guilty’ ではなく、’feel guilty’ であるという説も出されています。しかし、従来の訳に対するこの訳のメリットはあるものの、純粋に主観的な意味となってしまい、神の前に現存する「罪」の結果としての「咎」という意味合いが薄れてしまいます。また、アーシェームに、罰を受けて「苦しむ」という意味を読み込む立場もあります。

しかし、「罪」とは何かとの問いにも関わることですが、テキストは、「苦しみ」が何から来ているかさえも分からない人間の実存を問題にしていると考えられます。結論として、アーシェームという語は、「咎」の客観的な側面と主観的な側面を表現したものであろうと考えます。近年では、Jewish Publication Society 訳や English Standard Version などが’realizeguilt’ という表現でそのような意図を反映させようとしています。また、主の禁止命令のひとつを行うことと、「咎を覚える」こととが、同時に起こるかのような印象を避けるために、「後で咎を覚える場合」と補足してあります。




神の「かたちとして」(創世記1:26-27)

第三版は、創世記1章26節・27節を「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」と訳しています。

ここで、従来の「(神の)かたちに」は「(神の)かたちとして」に訳し変えられています。なぜこのように改訳する必要があるのでしょう。まず、「かたちとして」と「似せて」の背後にあるヘブル語、ツェレム(かたち)とデムート(似姿)は、5章1節、3節でも用いられていますが、それらに付く前置詞が入れ替わっているだけで、二つの間には意味の違いはありません。これらは、紀元前9世紀のアラム語のファハリヤ碑文にもワード・ペアー(対語)として出て来て、共に、王の「像」を指しています。

「かたち」という語は、「神の」という修飾がつく時、単に人が神と類似しているというのではなく、人が神の代理として「治める者」であることを意味します。詩篇8篇の、「あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」(6節)もそのことを指しています。これは、古代エジプトやアッシリアで、王が「神のかたち」であると考えられていたことに通じるものですが、聖書では、他のオリエントとは違って、王だけでなく「人」が、男も女も、「神のかたち」なのです。

このように、創世記1章は、人が「神のかたち」、即ち真の王である創造者なる神の代理として、即ち、神の「副指揮官」として被造物を治めるように創造されたのだと主張しているのです。ですから、再び28節で「地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と命じられています。

このような理解に立ちますと、従来の「(神の)かたちに」よりも「(神の)かたちとして」のほうが文脈に合っています。前置詞bを「に」ではなくて「として」と訳す可能性は、「全能の神として」(出エ6章3節)からも支持されます。




「地は茫漠として」(創世記1:2)

新改訳聖書・第三版では、従来の「地は形がなく、何もなかった」を「地は茫漠として何もなかった」と改訳しました。その理由は、ヘブル語のトーフーという語が、形があるかどうかを意味することばではなく、ウガリト語のthw(沙漠・荒地)のように、本来「荒野」とか「荒地」(申命記32:10,ヨブ6:18, 12:24)のような具体的な場所を指す語であったからです。「形がなく」(formless, without form)は、アウグスチヌス以来、西欧の教会に定着してきた訳語ですが、七十人訳聖書が受け継いでいるギリシア的思想を反映しています。そのギリシア語は、最近では、プラトンの『ティマエウス』という創造神話にまで遡りうると言われています。

1989年の改訂英訳聖書(REB) は、欽定訳以来、数百年にわたって受け継がれてきたこの訳語の代わりに、トーフー・ワ・ボーフーという表現をまとめて “a vast waste”(広大な荒地)と改訳しています。しかし、「茫漠として」は、地の状態が「荒地」であったと言っているのではありません。本来ならばそこに草木が生え、動物がいて、人間が住んでいるはずの地が、荒涼としてとりとめもなく広大な「荒地のような」状態であると宣言しているのです。この「茫漠として何もない」地は、神の霊、即ち神の「息」(ルーアハ)によって発される「ことば」により、草木を生じるようになり(11-12節)、動物を生じるようになるのです(24節)。そして、神は、このように整えられた地に、ご自身の「かたちとして」(次回参照)創造した人間を置かれたのです。

創世記1章の記述は、冒頭から、「地」に注目し(2節)、神の創造の業のクライマックスとして「地」に存在するようになった「人」に焦点が当てられています。それは、すでに「地」に置かれている人間に、人間がまだ存在していなかった時の、体験的には知りえない「地」の状況を、人がすでに知っている「荒地」という普通のことばを比喩的に用いて、「地」がまだ通常の地ではなかったことを伝えているのです。