
「さばきつかさ」という訳語について
第三版で「さばきつかさ」と訳されていた箇所は48箇所ありました。ところが2017では、そのうちの13箇所は「さばきつかさ」ですが、他の35箇所は「さばき人(25)」「さばく者(8)」「さばきをする(1)」「指導者(1)」と異なる訳語が用いられています。原語が違うのかと思い調べましたが、これら48箇所...
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第三版で「さばきつかさ」と訳されていた箇所は48箇所ありました。ところが2017では、そのうちの13箇所は「さばきつかさ」ですが、他の35箇所は「さばき人(25)」「さばく者(8)」「さばきをする(1)」「指導者(1)」と異なる訳語が用いられています。原語が違うのかと思い調べましたが、これら48箇所...
申命記のモーセの言葉にかぎかっこ「」が付いていません。 他の書の話には話し言葉には「」が付いていますが、なぜ、申命記だけモーセの語った言葉に「」を付けないのでしょうか。
エゼキエル書47章9節が「この川が流れて行くどこででも・・・」となっています。第3版にあった「所は」をなぜ抜いたのでしょうか。
創世記12章1節の前が1行空いています。 新改訳第3版にはありませんでしたし、ここだけ1行空いているのは、何か理由があるのでしょうか。
第一歴代誌20:4の「ラファ」は2017では「レファイム」に変わっていますが、20:6の「ラファ」はそのままです。何か意図があるのでしょうか?